こんにちは、しょる(@SHOLLWORKS)です。
皆さんは「イタリア製」と聞くと、おそらく「高級そう」「良さそう」など、概ねポジティブな印象を抱いていると思います。
Image Photo by IG Group
しかし、思えば不思議ではありませんか。
イタリアという国は、例えばGDPで言えばアメリカや日本よりも下です。
また、ヨーロッパの中だけでもイギリスやフランス、ドイツの方が上です。
それなのに、グッチやプラダ、アルマーニ、フェラガモといったイタリアを代表するブランドだけでなく、
といった、多くの米英仏のラグジュアリーブランドたちまで、“Made in Italy”と書かれた商品を販売しています。
本日は、プロのデザイナーである私しょるが、「なぜ、イタリア製は高級なのか」と、「なぜ、ハイブランドはイタリアで製造するのか」を解説します。
さまざまな理由で服作りに向いていたイタリア。
ブランドとして高級なイメージを獲得した歴史や経緯について、お話させていただければと思います。
「イタリア製」は元々、日本における中国製だった
イタリアは元々、イギリスやフランスの下請け国家だった
まず述べておきたいのは、「イタリア製」というものは、現代ファッションの歴史における前半部分においては「安物」と認知されていたということです。
多くの人にとって、今では想像できない感覚だと思います。
これは、イギリスやフランスといった“ヨーロッパの先進国”が、人件費の安い国へ製造業をシフトさせ、そのターゲットがイタリアだったことが理由です。
ヨーロッパの場合、19世紀の中頃からは急激な人口増加を実現しました。
特にヨーロッパの中でも先進国であったイギリスとフランスはその傾向が顕著でしたが、生活必需品である服も、国内の作り手だけでは賄えなくなっていたようです。
当時は爆発する人口と需要に対し、産業革命後の社会といえど、まだまだ量産体制が整っているとは言い難い時代でした。
ミシンは1850年頃に発明されますが、まだまだ性能も低く、手縫いでの服作りに頼る部分が多かった時代だからこそ、人件費の安さは一層重要でした。
そこで、イギリスやフランスといった国は、
- 自国と比較的近い位置にある
- 自国よりは人件費が安い
- ある程度の歴史的な実績と職人文化が涵養されている地域
といった条件を満たすところに目を付け、それが「イタリア」という地域だったということです。
地理的&人件費のバランスだけで考えるのであれば、日本に対する「一昔前の中国製」に近い位置付けです。
中世紀〜19世紀の中頃までの“イタリア”は、国名ではなく地域名であり、まだ「都市国家」として存在してる状態でした。
イタリア(と呼ばれた地域)は、ルネサンス期に栄華を誇りました。
14世紀当時は世界一の経済力を誇る地域だったようですが、その後は横ばいで、オランダやスペイン、ポルトガル、そして英国という世界の覇権国に対して後れを取る格好になっていました。
特に、20世紀初頭は相対的に低かったようです。
その後、1950年代の成長期まで、イタリア経済は低迷することになります。
ルネサンス期以降、イタリアはファッションの中心地であった
とはいえ、地理的・文化的な要因として、イタリアは「ファッションに適する場所」であったことは間違いありません。
特に、毛織物(ウール製品)や皮革製品は、中世のルネサンス期から主要産業として確立されたもの。
富を得たイギリスやフランスといった「列強」は、ただ人件費が安いというだけでなく、イタリアの歴史や自然環境に目を付け、製造させていました。
毛織物に関しては今でも「エルメネジルド・ゼニア」などが居を構えるビエラという都市が有名です。
ビエラはアルプスの麓にある都市で、水資源が豊富な地域。羊の遊牧文化と合わせて毛織物産業が盛んな地域でした。
また、フィレンツェに代表される「トスカーナ州」は西暦1200年頃から皮を鞣し、イタリアンレザーを生み出してきた記録が残っています。
現在もベジタブルタンニンレザーの生産地として世界的に有名で、ワルピエ社やバダラッシ・カルロ社、ヴォルピ社といった有名タンナーが居を構えます。
ユニクロの「イタリアンレザーベルト」も、トスカーナにある「ヴォルピ社」や「オーソニア社」が加工を施していることから、この名前が付けられています。
これらの生産拠点と職人文化が合わさり、イタリアは歴史的にウール製品やレザー製品の生産地として有名であったことは事実です。
だからこそ、イギリスやフランスにとっても都合の良い地域でした。
仏語の「モード」という言葉はイタリア語の「モーダ(moda)」に由来することからも、中世期のファッションはイタリアを中心に動いていたことは間違いありません。
しかし、オートクチュールの誕生に始まる「現代のファッション」においてはパリに中心を奪われ、イタリアは20世紀の半ば頃まで“下請けの国”として位置付けられていました。
「英仏への憧れ」から、やがて独自性へ
上記の経緯から、“下請け製造国”であった当時の「イタリア製」には、現在のようなステータスはありませんでした。
20世紀には今日まで続くイタリア発のラグジュアリーブランドが誕生しましたが、多くは英国やフランスへの憧れからスタートしたと言われています。
例えば、イタリアを代表する「グッチ」は1921年に創業したブランドですが、元々は創業者グッチオ・グッチが英国紳士への憧れから、第一次世界大戦後にイタリアへ帰国して創業したブランドでした。
Image Photo by GUCCI
初期のグッチが乗馬をモチーフとした皮革製品が人気となったのも、イタリアの文化というよりは、エルメスに代表されるような英仏貴族のライフスタイルの“後追い”と言えるでしょう。
そして、その頃の英仏は徐々に自動車が普及していきました。
グッチは1940年代にはロンドンやパリ、50年代にはニューヨークへ進出していました。当時の彼らは“イタリアから来たアウトサイダー”であり、まさに一昔前の音楽業界におけるK-POPのようなものでした。
また、イタリアはサルト(紳士服を中心とするスーツなどの仕立て屋)の分野においても、下請けとして英国に大きな影響を受けつつ、独自の仕様を確立していきました。
代表的な存在は、1930年に創業した「ロンドンハウス(現ルビナッチ)」。
ロンドンハウスは、店名の通り英国の紳士スタイルに大きな憧れを抱きつつ、イタリアスーツの代表格な特徴とも言える“ナポリ仕立て”を確立したサルトでした。
Image Photo by ISETAN MENS net
「ナポリ仕立て」と言えば、
- 雨振り袖(マニカカミーチャ)
- バルカポケット
- 重ねボタン
- 動きやすく軽やかな作り
などが特徴。
これらはイタリアのサルトに見られる特徴ですが、英国(サヴィルロウ)といかに差別化し、イタリアの個性を確立しようと編み出されたディテールです。
ロンドンハウスの初代オーナーであるジェンナーロ・ルビナッチは、前身となるテーラーで共に働いたヴィンチェンツォ・アットリーニと二人三脚で「ナポリ仕立て」の原型を作っていきました。
ルビナッチがイタリア最高のサルトであり、アットリーニがイタリア最高のブランドたる所以です。
イタリアのサルトたちは、英国への強い憧れを抱きながらもイタリア独自のブランディングをも確立していった。
これこそイタリアの“高級への道”であり、強かな戦略の第一歩でもありました。
イタリア製=高級品という図式は、主に1970年代以降の価値観
イタリアは第二次世界大戦の敗戦国となった後、1950年代から目覚ましい経済成長を遂げました。
経済成長に伴うイタリアの人件費高騰に対し、イギリスやフランスなどのブランドの中には、「イタリア製」であることをやめようとするところも現れました。
そこで、イタリアは大胆な方向性の転換を計画します。
既存の産業に付加価値をもたらすとともに、「イタリアで作らせること」を、世界中のブランドにとってのステータスとなるものでした。
その成功はまさしく、「ラグジュアリーブランドは“どこ製であるべきか”」という論争に終止符を打つものでした。
「イタリア製」を高級にするため、イタリアが行ったことは、主に
- 「ピッティ」の創設(1951年)
- ミラノコレクションの創設・運営を通じたニュースターの発掘(1976年)
- アメリカをターゲットとした販売戦略
の3点に集約されます。
1951年創設の「ピッティ」は、イタリア初の“アルタモーダ”コレクション
1951年に創設したピッティは、イタリア初のファッションショーにして、パリのオートクチュールに並び立つ存在を目指して立ち上げられたものでした。
結果としては決定打とはならなかったものの、まさにイタリアのブランド産業を押し上げ、国の主要産業としてスタートする切欠となるコレクションでした。
ピッティを創業したのはイタリアの貴族、ジョバンニ・バッティスタ・ジョルジーニ(Giovanni Battista Giorgini)侯爵。
今でこそ、メンズファッションの見本市として有名なピッティ(ピッティ・イマージュ・ウォモ)ですが、当初はレディースのオートクチュールにプレタポルテも掛け合わせたものでした。
フェラガモの靴などイタリア製品をアメリカ市場へ売るビジネスを行っていた侯爵は、イタリア版のオートクチュール“アルタモーダ(ALTAMODA)”を立ち上げました。
生地から製造までを内需で賄えるイタリアという国において、イタリア発のファッションの地位向上を目指したものでした。
第一回のピッティ(1951年)はフィレンツェにあるジョルジーニ侯爵の自宅で行われましたが、1953年からはピッティ宮殿にて行われており、これが「ピッティ」と名付けられる所以となります。
そして、製造の“上流”であった英仏相手というよりも、主にアメリカをメインターゲットにしたことも特筆事項です。
アメリカ人に、イタリアの貴族社会を彷彿とさせるオートクチュールコレクションを提案することで、アメリカ市場でイタリアのファッションが一定の注目を集める契機になりました。
さらに、ジョルジーニ侯爵は、まだパリでも確立されていなかったプレタポルテ(高級既製服)コレクションも企画しました。
当時の既製服は「庶民の着る廉価で出来の悪い服」という認識でしたが、イタリアの毛織物や皮革製品を中心とする素材を使用した「良質な既製服」を手掛けるという、当時としては非常に斬新な切り口でした。
結果として、侯爵の考えた“早すぎたたプレタポルテ”は、市場に広く受け入れられたとは言い難い結果となりました。
しかし、50年代、60年代、そして70年代の戦後先進諸国の経済成長に伴う“小金持ち”の増大に伴い、やがてプレタポルテはクチュールに代わる「ファッションの主役」となりました。
1976年にスタートした「ミラノコレクション」は、モードの世界での立場を確立した
ファッションの中心地であるパリのオートクチュール(注文服)は19世紀より存在していましたが、既製服部門のいわゆる“パリコレ”が誕生したのは、1973年のことでした。
パリコレに遅れること3年後の1976年、イタリアは対抗するように「ミラノコレクション」を創設。
ピッティを立ち上げたときから時代は移り過ぎ、プレタポルテコレクションによる高級化路線を推し進めました。
ミラノコレクションは結果として、イタリアから世界的なデザイナーを多数輩出しました。
歴史とこれまでの歩みに加え、デザイナーとしてのスターの誕生が、「イタリア製=高級品」というイメージの付与に大きく寄与したと言って良いでしょう。
モードデザイナーとしてミラノコレクションに登場した新たなスターとしては、
- グッチ(1921年創業)
- プラダ(1913年創業)
- フェンディ(1925年創業)
- フェラガモ(1927年創業)
- フルラ(1927年創業)
- トッズ(1920年代創業)
- ヴァレクストラ(1937年創業)
といった歴史の深い皮革製品が中心であったブランドに加え、
- ジョルジオ・アルマーニ(1975年創業)
- ジャンフランコ・フェレ(1974年創業)
- ジャンニ・ヴェルサーチェ(1978年創業)
という、通称「ミラノの3G」、
さらに、
- ボッテガ・ヴェネタ(1966年創業)
- マックス・マーラ(1951年創業)
- セルジオ・ロッシ(1951年創業)
- エトロ(1968年創業)
- ディーゼル(1978年創業)
といった今に連なる有名ブランドたちが、次々と参入し、注目を集めました。
さらに、80年代~90年代には、
- モスキーノ(1983年創業)
- ドルチェ&ガッバーナ(1985年創業)
- ミュウミュウ(プラダのセカンドライン、1993年創業)
- マルニ(1994年創業)
といったブランドの、目覚ましい復活なども特筆事項です。
つまり、
- パリに次ぐラグジュアリー・ファッションの発信地であり、(長らく下請けとなっていた歴史から)英仏とは異なり製造業を維持・発展できたこと。
- ただの下請けに甘んじることなく、個性を追い求めたサルトやデザイナーたちがいたこと。
が、イタリア製=高級品という実績を獲得した理由でした。
産業構造と「マックス・マーラ」の量産システムが、プレタポルテを確立した
コンセプトやクチュールの技術に秀でたパリ(フランス)と異なり、イタリアが“製造業自体に向いていたこと”も、プレタポルテ時代に「イタリア製」が多い決定的な理由となりました。
イタリアはブランドとテキスタイルメーカーの連携が強固であり、この産業や意識の構造を最大限活用した量産体制を確立したのがマックス・マーラの創業者であるアキーレ・マルモッティでした。
マルモッティは、職人の矜持と量産を両立した製造ラインを構築し、「既製品ながら高級」という製造方法を確立した人物でした。
それまで廉価で低品質であった機械インフラを用いた既製服の製造方法とは異なる、イタリアらしい量産方法です。
具体的には、一人の職人が裁断から縫製・アイロンまで手掛け、「量産品ながら昔ながらの製法によるハンドメイドによる付加価値を与える」こと。
これは、イタリアの伝統的なハンドメイドによる職人的技術と、マルモッティがスイスのレインコート工場で目の当たりにした、大工場における効率的な生産システムを融合させることによって、閃いた製造方法でした。
量産服の現場は一般的に、一人がミシンだけを扱い、さらに袖なら袖だけを縫う。他にも襟だけを縫う人がいて、縫い合わせる専用の人がいる。
しかし、これでは仕事に対して全体像が見えにくく、仕事に対しても矜持が生まれにくいという欠点があります。
マルモッティの提唱した高級既製服の製造方法は当然、製造効率そのものは落ちます。しかし、結果として、一人の職人の微妙な製造の中でのバランスの取り方などによって、品質は高いものが出来上がるようになりました。この製造方式はイタリアで広く普及し、普通の量産服とは異なる付加価値となりました。
終わりに|反骨精神と適切な変化が「ブランド国家」へと押し上げた
今回は以上です。
今日、「イタリア製であること」に高級感を感じるのは、おそらく私も皆さんも同じだと思います。
ご紹介してきたような歴史と出来事が、今日のイタリア製のポジションを築き上げました。
さらに、90年代末~00年代にかけての「クラシコブーム」なども、例えば日本での“イタリア製信仰”を進めたムーブメントでした。
前半はイザイアやアットリーニのような色気がありつつ“決まっている”スタイル。
そして、後半にはボリオリやラルディーニといったマシンメイド中心のブランドも登場し、高い知名度を獲得する結果となりました。
また、高度に量産体制が敷かれるブランドが存在する一方、地域単位の意識が強いイタリアはインフラの格差も特徴です。
地域によってはインフラの遅れから、いまだに「家内制手工業」を採用しているファクトリーも多いのですが、この産業構造もまた、90年代以降の「イタリア製」に新たな付加価値を齎しました。
プレタポルテで成功したブランドが“表面”で活躍する一方、90年代になるとプレタポルテである限りは賄えない、“手縫いであること”の価値が強くなります。
単なる有名ブランドではない、知る人ぞ知るハンド率の高い革小物やスーツ、シャツなどの存在が明るみになってきました。
これらがプレタポルテの成功による「イタリア製=高級品」に対し、さらに“乗っかるかたち”での付加価値であることは間違いありません。
手縫いとは機械インフラの遅れの証左でもあります。
しかし、機械縫製が当たり前になれば、却って「手縫い」だからこの価格に納得できる。職人がハンドメイドで手間暇をかけて作っている。
だから高級品だという構図すら成り立つことになります。
まさしく、実績が新たな実績を呼ぶ。その構造もまたイタリアのブランディングの上手さなのでしょうね。
おしまい!
(少しでもお役に立てられたなら、SNSに拡散していただけると嬉しいです!)