エルメス(HERMES)はなぜ「最高のブランド」なのか?創業から現代まで、歴史に息づくフィロソフィーと変革を紐解く
SHOLL「ブランドの中のブランド」エルメスは、なぜ今日、トップブランドとしてのステータスを確立したのか。
19世紀の創業から現代までのエルメスの歩みを追い、歴史に息づくフィロソフィーと変革を見ていきましょう。
こんにちは、しょる(@SHOLLWORKS)です。
今回は、世界的トップブランドのエルメス(HERMES)について。
おそらく、ファッションに興味のない方でも、「エルメス」というブランド名は聞いたことがあると思います。
一方、服やブランドに興味を持ち始めた方は「なんとなく凄そう」「高そう」といったイメージをお持ちではないでしょうか。
仮に、個人の好みを抜きにして「ブランド力」で価値を推し量るのであれば、エルメスはこの世のあらゆるファッションブランドの中でも最高のステータスを誇ります。
「ブランドの中のブランド」と形容される存在で、「エルメス」と「その他」で区分されるといっても過言ではありません。

では、なぜエルメスは「最高」なのか。
それは、190年弱の長い歴史の中で、伝統を保持しつつも確かに変化をしてきた上で「名作」を生み出してきたから。
SHOLL今回は、エルメスの創業から現代までの歴史を追うと共に、時代を経ることで生まれていった、エルメスの歩みと価値観についても触れていきたいと思います。
それでは、本日もよろしくお願いします。
エルメスがブランドに込めた「姿勢」は、190年後も連なるフィロソフィー
創業期のエルメス|馬へのやさしさといった「品質本位」が評判を呼んだ
1837年、当時36歳のティエリー・エルメスによって創業されたエルメスは、馬具工房として始まりました。
19世紀の中ごろは車はまだ存在せず、上流階級の人々は「馬車」に乗って移動をしていた時代でしたが、「昼は2人乗りの二輪馬車、夜は箱型の四輪馬車」を所有することが、上流階級のステータスだったそうです。
石畳の悪路が多いパリも同様に、衣服を汚さない馬車を利用することが上流階級のライフスタイルとなっていました。
そのような社会背景の中、ティエリーの工房が製作した馬具の知名度が上がった理由は、偏に高い品質でした。
SHOLL職人の手によって丁寧に作りこまれた馬具は、特に「馬が傷つきにくく、暴れないことから乗り手も安心できる」という点で好評だったそうです。

そして、エルメスは「馬に優しい」「優れた耐久性」といった顧客の実用的なニーズを捉えることと同時に、控えめながら洗練されたデザイン性にも秀でていたと言われています。
フランス最後の皇帝であったナポレオン三世にも愛用され、いわば「セレブ御用達ブランド」の先駆けであったエルメス。
日本が初参加した1867年のパリ万国博覧会では、女性用の鞍(くら)を出展し銀賞(ルイ・ヴィトンは銅賞)、そして、1878年にも行われたパリ万国博覧会では、最高賞であるグラン・プリを受賞しています。
SHOLL創業者ティエリー・エルメスは、惜しむらくは1878年のパリ万博開催の3か月前にその生涯を閉じますが、エルメスの栄誉と繁栄は二代目、シャルル=エミール・エルメスと職人たちに引き継がれていきます。
現在の本店の完成とオーダーメイド馬具の製作


1880年頃と現在のエルメス本店
二代目、シャルル=エミール・エルメスは、亡き父をはじめとする家族、そして工房の職人と勝ち得た万国博覧会での栄誉を足掛かりに事業を拡大しました。
アトリエをフォーブル・サントノーレ通りの24番地に移設し、同時に、工房に併設した店舗を持つようになります。
この地に「メゾン」を設立したエルメスは、やがて、その位置から「右岸のエルメス」と呼ばれるようになりました。
(「右岸」とはパリを通るセーヌ河を挟んで、貴族的で保守的な傾向にある地域で、やや革新的な「左岸のアルニス」と対照的に位置付けられています。)
シャルルはそこで、更なる顧客への付加価値を提供すべくオーダーメイドの鞍(くら)を製作するようになります。
それまでも(万博に出展した通り)エルメスの工房で鞍作りは行われていたようですが、本格的に参入したのはこの時代だったそうです。
職人が乗り手の要望を聞くことで、満足した顧客がリピートすると同時に「口コミ」が広がる。
そして、新規ユーザーに対しても満足度を実感してもらうことで、同じサイクルが生まれる。
SHOLL拡散→口コミ→評判の獲得→拡散→・・・という、現代と何ら変わらないブランディングのサイクルが、19世紀末のエルメスにおいても発生していました。
カスタムで馬具を作ることは、工房の職人に対して高い技術力が要求されます。
しかし、それ以上の高い顧客満足度は唯一無二のファンを生み出し、ヨーロッパ全土の上流階級層に知れ渡りました。
「体験価値」と「時代の変化への適応」が掛け合わさり最高のブランドに
三代目エミールが「時代を捉え」、馬具から派生したレザーアイテムを生み出した
19世紀末、エルメスは馬具以外の製品を製作するようになりました。
シャルルの次男である三代目、エミール=モーリス・エルメスは、店先にレディース向けの手袋やハットピンなど、馬車に乗る人たちのライフスタイルを彩る商品を置き始めました。
その結果、馬具を購入する男性客だけでなく、女性の心をも捉えるように「変化」することで、新たな顧客層の獲得にも成功します。
また、エルメスは1890年頃、「オータクロア」を発表。
これは、のちの1984年に登場した不朽の名作「バーキン」の原形となったバッグで、馬の乗り手のサドルやブーツをしまうために作られた大型のオータクロアは、職人技の美しさから大変好評だったそうです。
大戦時に目の当たりにした「ファスナー」が転換期のブレイクスルーとなった
1885年、ガソリンエンジン自動車が誕生しました。
そして、20世紀になるとアメリカ、そしてヨーロッパの上流階級を中心に自動車が普及します(奇しくも「ルノー」創業者、ルイ・ルノーはエミールの友人だったそうです)。
これは同時に、移動手段としての馬の役目に陰りが見え始めたということでもあります。
「最高の馬具」を提供してきたエルメスにとって、20世紀の幕開けは「変革の必要性」に迫られた時代でした。
エルメスは、需要が衰退する馬具以外の製造および販売事業を拡大する方向に舵を切ります。
エミールは職人ではなかったものの、商売人として才覚を発揮していたようです。
SHOLLエルメスの強みである「上質な革」と「高度な技術力を持った職人」を活かし、いわゆる「ファッションブランド」として、レディースのバッグや財布などの皮革製品に本格参入しました。
1922年、エミールは家族や職人達の意見を押し切り、1891年にアメリカで発明されたファスナー(当時は「アメリカ式万能閉じ具」という名前でした)の特許を買い取ります。
これは、第一次世界大戦(1914~1918年)時にフランス軍に徴兵され、カナダで革の買い付けを行っていた際、偶然ファスナーを見かけたことがきっかけだったそうです。
また、エミールは戦線にて車、そして初期型の飛行機が使用されているのを目の当たりにして、「馬の時代」が終わることを、一層、痛感したようです。
そして帰国後、カナダで出会ったファスナーを鞄や洋服に使用し、世界初のジッパーの付いたハンドバッグを発売しました。
今では当然のようにバッグにファスナーが付いていますが、最初にファスナーをバッグに取り付けたブランドがエルメスと言われています。
SHOLLこれまで培ってきた強みと、新たなジャンルを融合することで時代のニーズに対して応える柔軟さが今日のブランドステータスを生んでいるといっても過言ではありません。
ファスナー式バッグ&ウェアが大ヒット、メンズ・レディースの顧客を取り込む
エミールが職人に作らせた、馬具製作のための高度な技術を落とし込んだ革製品は、完全に時代の流れを読んだものでした。
また、総力戦となった第一次世界大戦は、兵役に就いた男性に代わって女性が労働者となった戦争でした。
この出来事が、上流階級の女性にも「実用性」「耐久性」といった要素を重視する価値観を与え、女性の服装が一気に簡素化したことも特筆事項です。
それまでの耐久性無視で製作された「贅沢な服飾」から、革で作られた何十年と使えるバッグや手袋(そして、所有欲まで満たしてくれるもの)というニーズの遷移に、エルメスの商品は完全に合致したものでした。
SHOLLファスナーを付けたゴルフ用レザーウェアは、20世紀最大のファッションリーダーであるイギリスのウィンザー公によって広められました。
また、ココ・シャネルがエルメスの革小物を身に付けたことなども、ファッションとしてのエルメスの知名度を大きく向上させました。

栄華を誇った1920年代のエルメスと「レ・ザネ・フォル」
第一次世界大戦後~第二次世界大戦の遠因となる1929年の世界大恐慌が起こるまでの間を、「レ・ザネ・フォル(フランス語で「狂乱の時代」を意味する)」といいます。
この時代に現在のライフスタイルの基礎が確立され、芸術も「アール・デコ」が盛んになるなど「明るい時代」が続きました。
エミールは美術・芸術作品の収集家でもありましたが、エルメスが大いに芸術性を吸収し、ファッション文化を進化させた作品を生んだのもこの時代です。
SHOLLここでは、先述のレザーバッグやウェア以外にエルメスがファッション界に貢献した事例を、幾つか挙げてみましょう。
懐中時計に革製のベルト・ストラップを採用
エルメスはスイスのジャガー・ルクルトなどの懐中時計のレザーバンドやストラップケースを製作しており、従来の鎖に代わる素材として注目を浴びました。
時計分野においても、エルメスは革素材を使用することを推し進めたパイオニアでした。
いずれにせよ、エルメスが中心的なブランドとなって、ファッションとしての時計に革製のバンドやケースを取り入れたことは間違いないようです。
SHOLLこの事実を知ると、なぜエルメスが現代の時計のイノベーションである、アップルウォッチのレザーバンドを販売しているのかも納得できます。
スカートへのファスナーの取り付け|シャネルとの「協働」
今では当たり前に取り付けられている衣類のファスナーですが、100年前のスカートには存在しなかったディテールでした。
特に、当時のスカートはホックで留めていましたが、厚地の布だと上手くホックを留めにくいという問題がありました。
そこで、欧州を席巻していたエルメスが特許を持っているファスナー「システム・エクレール」に注目したのが、ココ・シャネルでした。
しかし、エルメスからファスナーを購入しても、当時のシャネルのメゾンにいた縫い子では上手く取り付けられなかったようで、結局、シャネルはエルメスにスカートのファスナー取り付けを依頼することとなりました。
SHOLLシャネルは新たな時代の女性のための活動的なルックを数多く生み出しましたが、その初期のスカートはエルメスが下支えしていました。
従業員による、アーティスティックなウィンドウディスプレイの発案
芸術的にも豊かな1920年代、エルメスの店舗にて手袋の販売係だったアニー・ボーメルが、店舗のショーウィンドウのディスプレイに工夫を凝らし、単なる“商品陳列”の域を超えた芸術的なブランド表現を試みました。
アニーのディスプレイは芸術に造詣の深いエミールを驚かせ、アニーはエルメスのディスプレイの責任者に抜擢されます。
アニーは、その後も道行く人々にエルメスへの憧れを抱かせる「作品」を作り続けることになりますが、それまで、「芸術的ディスプレイ」は確立されたブランディングの手法ではありませんでした。
ウィンドウディスプレイは、結果として店頭に立ち寄る人を増やし、今日までエルメスのみならず、多くのブランドにとって「世界観」と「イメージ」を伝える手段になっています。
SHOLL今日、多くのブランドが当たり前のように真似をするブランディング手法が確立した出来事でした。
「レ・ザネ・フォル」後の1937年、シルクスカーフ「カレ・エルメス」を発表
エミールの次女、ジャクリーヌと1928年に結婚した四代目、ロベール=デュマ・エルメスは、革製品とは離れたエルメスの「名作」に注力します。
時は世界恐慌を経て、ナチス・ドイツとの緊張が走る1937年、エルメスはブランドとして初のスカーフ、「カレ(フランス語で正方形を意味する)・エルメス」を発表しました。
SHOLL「カレ・エルメス」第一号となったのは「オムニバス・ゲームと白い貴婦人」。
当時流行っていたゲームを題材にしたのは、奇しくもエルメスの原点ともいえる馬車(オムニバスは「乗合馬車」を意味し、自動車にとって代わられた現在も「バス」の語源となっています)でした。
戦後のエルメス|名作は「顧客の困った」から生まれた
戦後すぐのエルメスで目を引くのは、名作の多くが、使う人の具体的な場面から生まれていることです。
ネクタイは顧客の困りごとから始まり、ケリーは実在の人物が持ったことで名前を得ました。
その前に、まずはエルメスの「顔」の話から始めます。
1945年、ロゴの馬車が「エルメスの顔」になった

メゾンの紋章(エンブレム)として定められたのは、第二次世界大戦が終結した1945年のことでした。
こちらは(ある程度)有名な話ですが、エルメスのブランドロゴには馬車と従者が描かれているものの、馬車には人が座っていません。
これは、描かれている馬車にはお客様が座ること、エルメスは最高の商品(馬具)を提供こそすれ、「あくまでツールである」ということを意味しています。
ブランドロゴの元になったのは、三代目エミール・エルメスが集めていた美術品のひとつで、19世紀の画家アルフレッド・ド・ドルーが描いた「Duc attelé, groom à l’attente(つながれた馬車、待つ従者)」という作品でした。

Photo by HERMES
戦争が終わった年に、エルメスが自分たちの顔として選んだのは、馬具屋としての原点そのものでした。
SHOLLこの時点までもエルメスは変革を重ね、さらに、ここから先も扱う品はどんどん増えていきますが、看板に描かれているのはずっと馬車と従者です。
この選択が、このあと続く戦後の「増やし方」を、最初に言い表していたように思います。
1949年のネクタイ|カジノに入れなかった紳士たちの「困った」

Photo by Kent Wang(CC BY-SA 2.0)
1949年、エルメスは初めてネクタイを作ります。
きっかけは、南仏カンヌでの出来事だったそうで、(ドレスコードから)ネクタイが必要なカジノに入れなかった紳士たちが、そのネクタイを求めて、すぐ近くにあったエルメスの店を訪れたのです。
こうした求めに応える形で、エルメスは絹のネクタイを作り始めたことで、やがてネクタイは、エルメスの紳士の装いに欠かせない品になります。
SHOLLエルメスの場合、ネクタイは目の前の顧客が困っていたから始まったそうです。
1937年からスカーフ「カレ」で絹の柄を作ってきたことから派生して、「エルメスらしいネクタイ」が短期に確立されていきます。

1951年、ロベール・デュマ|工房に通い、道具の部品を美しくした継承者
1951年、4人の娘の父だったエミールは、娘婿の一人であるロベール・デュマに経営を譲ります。
ロベールは工房に足しげく通う経営者だったそうで、バックルや留め具、鞍に打つ鋲(びょう)、船の錨(いかり)をつなぐ鎖といった「道具の部品」を、使いやすさを損なわないまま、美しい形の品に仕立てています。
SHOLL「機能のための部品を、そのまま意匠にする」というのは、馬具屋の目を持つ人でなければ出てこない発想だと思います。
飾るための飾りではないので、時代が変わっても古びにくいのだと思います。
さらに、ロベールの時代には、扱う分野も広がりました。
1951年には香水「オー・デルメス」で香りの部門が始まり、1967年には初めての婦人既製服(サイズごとに作って店で売る服)のコレクションが発表されます。
婦人服を任されたカトリーヌ・カロリは1980年まで服と小物を手がけ、「H」の形をしたあのバックルも生み出しました。
1956年、ケリー|一枚の写真がバッグに名前を付けた

Photo by HERMES
今もエルメスのアイコンとなっている「ケリー」は、ロベールが1930年代にデザインしたバッグが発端でした。
生まれてしばらくのあいだ、このバッグに「ケリー」という名前は付いていなかったのですが、1956年、モナコ公妃グレース・ケリーがこのバッグを手にした写真が世界中に掲載されました。
ここからバッグの快進撃が始まり、エルメスは公妃への敬意を込めて、このバッグを「ケリー」と名付けたという「後付け設定」だったのです。
SHOLLちょっと今では考えられない順序ではありますが、ストーリーとインパクトが重要ということを教えてくれるような話だと思います。
1970〜80年代|広げても薄まらない「増やし方」
1970年代の半ばから、エルメスはさらに靴、時計、銀器、クリスタルへと扱う分野を広げていきます。
1978年にはロベールの息子ジャン=ルイ・デュマが経営を継ぎ、メゾンを多角化して、世界の地図に載せていきました。
1978年の時計|名前を貸すのではなく、工房をつくった
エルメスと時計の付き合いは古く、1920年代の話で触れた懐中時計の革ベルトやケースに続いて、1928年には時計そのものも扱い始めています。
そして、ジャン=ルイが経営を継いだのと同じ1978年に、スイスのビエンヌに時計の子会社「ラ・モントル・エルメス」が設立されました。
エルメスは実際に今でも、時計の本体だけでなくムーブメント(時計を動かす機械)や部品まで、ほとんどを自社で作っています。
ブランドが新しい分野へ出るとき、いちばん手っ取り早いのは、すでにその品を作れる会社に名前を貸し、ロゴを入れてもらう方法です(いわゆるライセンス生産)。
売り場はすぐに広がりますが、作る技は自分の手元に残らないので、品の良し悪しはブランドの外で決まってしまいます。
エルメスが時計でとったのは逆で、時計を作る場所そのものを持ち、半世紀近くかけて、部品まで自分たちで作れるところまで技を積み上げたのです。
SHOLL記事の前半で見た「上質な革」と「高度な技術力を持った職人」という強みを、時計という別の分野で育て直したわけです。
靴はジョンロブ|「パリ」と「ロンドン」は別の会社

Photo by JOHN LOBB
一方、靴では、エルメスは作り手を「迎え入れる」道を選びます。
相手は、1866年にロンドンで注文靴の店を開いた英国の靴屋、ジョンロブ(John Lobb)でした。
ジョンロブは1899年にパリにも店を開いており、経営難から1970年代半ばにエルメスの傘下に入ります。
その後、1982年には既製靴のコレクションを始め、いまは英国ノーサンプトンの工房で既製靴を、パリのアトリエで注文靴を作っています。
ここで混同しやすいのが、ロンドンのジョンロブです。
ロンドンのセント・ジェームズ・ストリートで注文靴を手がける John Lobb Ltd は、エルメスとは別に、現在も家族経営を続けている会社です。
SHOLL百貨店やブティックで目にする既製靴は、エルメス傘下のジョンロブのものです。
ロンドンの John Lobb Ltd は注文靴の店なので、同じ名前でも、買い方からして別物なのですね。
一方で、エルメス自身の靴は、1990年からデザイナーのピエール・アルディが手がけています。
英国生まれのジョンロブの靴と、エルメスの靴を、名前を混ぜずに並べているわけです。
エルメスはその後も、同じやり方で技を持つ作り手を迎えています。
1993年には銀器のピュイフォルカ、1995年にはクリスタルのサン・ルイがグループに加わりました。

1984年、バーキン|機内の偶然から生まれた「理想のバッグ」

Photo by Ohconfucius(CC BY 3.0)
1984年に生まれたのが、いまやエルメスの代名詞ともいえる「バーキン」です。
きっかけは、パリからロンドンへ向かう飛行機で、そこにたまたま乗り合わせたのが、ジャン=ルイ・デュマと、歌手で女優のジェーン・バーキンだったそう。
バーキンというと、「高い」「手に入らない」「エルメスの商法が気に入らない」という話が先に立ちます(一理ある)が、ひとりの使い手が思い描く理想のバッグを、経営者自らがデザインしたところから始まっている点に特別なストーリーが込められています。
SHOLL19世紀の工房で、乗り手の要望を聞いて鞍を作っていた関係が、100年ほど後に、飛行機の座席で同じように起きていた。
ケリーが「使われて名前を得たバッグ」なら、バーキンは「使う人のために作られたバッグ」です。
世界観を「見せる」仕事|ウィンドウ、読み物、年間テーマ
品が増えるほど、それらを「同じエルメスの品」としてつなぐ仕事が大事になります。
エルメスでその役を担ったのが、ウィンドウと読み物、そして毎年のテーマでした。
先述のウィンドウディスプレイにおいて、1960年代の初めには、チュニスとパリの美術学校で学んだレイラ・メンシャリがアニー・ボーメルのもとに加わり、1978年から2013年まで一人でウィンドウを手がけます。

Photo by HERMES
そして創業150周年を迎えた1987年には、パリのポン・ヌフ橋で花火が上がり、この年から、エルメスは毎年ひとつの「年間テーマ」を掲げ、すべての部門がその共通テーマを着想源にする、という習わしを続けています。
ネクタイも時計も靴も、商品だけを並べれば、別々の売り場の品ですが、ウィンドウの一場面や読み物の一冊、毎年のテーマが「同じ世界の住人」にしていることで、「エルメス」としての統一感を持たせています。
SHOLL商品の説明ではなく世界観を見せることで、増えた品がバラバラにならずに済んでいる、ということです。
20世紀末|職人の仕事場と、経営の舵を手放さなかった
20世紀の終わりに、エルメスは2つの大きな変化を迎えます。
革工房の移転と、株式の上場です。
1992年、パンタンへ|革職人に広い仕事場を

Photo by HERMES
1992年、エルメスは革製品の工房を、フォーブル・サントノーレ24番地にある本店の建物から、パリのすぐ外にあるパンタンへと移転させました。
新しい建物は、職人が働く場所として、明るく広い仕事場になっています。
1993年の上場|それでも家族が舵を握る仕組み
1993年6月3日、エルメスグループの親会社であるエルメス・インターナショナルは、パリ証券取引所に上場しました。
一般に、上場すると株を買った外の人の声が経営に届きやすくなり、ときには「もっと早く、もっと多く売ってほしい」という圧力にもなります。
エルメスは、上場の3年前の1990年に、会社の形を「株式合資会社」に変えていました。
ざっくり言えば、株式合資会社は、お金を出す株主と、経営者を選ぶ権限を持つ社員とを分けた会社の形です(日本にもかつてあったそうですが、廃止されています)。
現在、エルメスの経営者を選び、辞めさせる権限は、エルメス家のグループが支配する「エミール・エルメス社」が持っています。
会社自身も、この形にした理由を「アイデンティティと文化を守り、長く存続させるため」と説明しています。
SHOLL株式市場のお金は使うけれど、舵は渡さない。エルメスは「作り手の家」であり続けるための形を先に整え、そのあとで上場したことになります。
「エルメスらしさ」はなぜ消えなかったのか
戦後から20世紀末までの約50年で、エルメスはネクタイ、香水、婦人服、時計、靴、銀器、クリスタルへと分野を広げました。
それでも「エルメスらしさ」が消えなかったのは、増やし方に型があったからだと私は考えます。
新しい品やその名前は、ネクタイやケリー、バーキンのように、使う人の具体的な場面から生まれ、新しい分野へは、時計やジョンロブ、ピュイフォルカ、サン・ルイのように、技を持つ作り手ごと入っていきました。
そして、パンタンの工房や上場前の会社の形のように、職人の仕事場と経営の舵は手放しませんでした。
SHOLLもちろん、何も現代的なブランド化をしなかったわけではないですが、結果として、エルメスは「そのブランドでなくてはならないもの」を増やし続けることができたと思います。

2000年代に入ると、エルメスはニューヨークのマディソン街(2000年)や東京・銀座(2001年)に「メゾンエルメス」を開き、どの店にも、馬具屋としての個性とその土地の文化を組み合わせていきます。
SHOLL銀座の、ガラスブロックに覆われた建物を目にしたことがある方も多いかもしれません。
21世紀のエルメス|2万6千人の会社になっても「型」は残った

Photo by Kakidai(CC BY-SA 4.0)
21世紀を迎えてからも、エルメスは店舗網や取り扱う品を拡大し続け、大きな会社へと育ちました。
その中には現代的なマーケティング戦略、経営の効率化などが節々に見られてはいるものの、それでも、戦後から20世紀末にかけて培われてきた「増やし方の型」は、いまも残っていると私は考えています。
東京・銀座のメゾンエルメスは、イタリアの建築家レンゾ・ピアノが設計を手掛けた建築です。
その後も2006年の韓国・ソウル、2014年の中国・上海など展開を続け、メゾンエルメスは世界5館にまで広がっていきました。
広がったのは店舗網だけにとどまりません。
2010年には貴石を用いたハイジュエリー(オート・ビジュトリー)の初コレクションを発表し、2020年には化粧品分野の「ビューティー」が加わりました。
エルメスでは事業部門を「メティエ」と呼んでいますが、ビューティーは16番目のメティエにあたります。
その第1作となったのがリップアイテムの「ルージュ・エルメス」で、デザインや研究開発に5年をかけたそうです。
そして2025年、エルメスグループの売上高は160億ユーロに達し、従業員数は2万6,000人を突破しました(2025年末時点で2万6,494人)。
顧客の新しい場面にも、馬具屋の技で応える
21世紀のエルメスにおいても、新製品が使う人の暮らしの変化から生まれるという点は一貫しています。
かつてと異なるのは、その暮らしに入り込んできた道具が、馬車や自動車からスマートウォッチやスマートフォンへと移り変わった点です。
2006〜2013年、経営は六代目へ
1978年から経営を率いてきたジャン=ルイ・デュマは、2006年、自身の右腕であったパトリック・トマに経営の舵取りを託しました。
一方、ものづくりのクリエイティブ面では、2005年にジャン=ルイの息子である六代目のピエール=アレクシ・デュマがアーティスティック・ディレクターに就任しています。
そして2013年には、ジャン=ルイの甥にあたる同じく六代目のアクセル・デュマが経営トップに就き、経営面でも第六世代への引き継ぎが行われました。
SHOLLパトリック・トマは、ジャン=ルイから第六世代へと世代交代が進む間、経営をつなぐ架け橋としての役割を果たしていました。
スマートウォッチから自転車まで|いまの暮らしの道具を、革で仕立てる
こうした最新の道具に対し、エルメスは機械そのものを開発するのではなく、身に着けたり持ち歩いたりするためのパーツを、レザーと馬具屋の技で仕立てています。
2015年、エルメスはアップルとタッグを組み、「Apple Watch Hermès」をスタートさせました。
SHOLLジャガー・ルクルトなどの懐中時計に向けて、革製バンドやケースを手掛けていたのと同様に、デジタル時計の内部機構やシステムはアップルが担うパターンです。
2021年、職人の学校|革職人を自分たちで育てる
革職人の国家資格が取れる学校
2021年、エルメスは職人学校「エコール・エルメス・デ・サヴォワール=フェール(École Hermès des Savoir-Faire)」を開校しました。
ここでは、革製品づくりの国家職業資格(フランスの「CAP」)を取得することができます。
この学校は現在、各地の12か所に広がり、裁断や縫製の職業訓練を行っているそうです。
フランス各地に増える革工房

Photo by HERMES
学校の拡大と並行して、職人たちが働く工房の数も増えています。
2021年には19番目となる革工房がジロンド県ギュイエンヌに開設され、2025年9月にはシャラント県リル=デスパニャックに24番目の革工房が誕生しました。
エルメスの革製品と馬具は、そのすべてがフランス国内で作られています。
製品全体で見ても75%がフランス製で、全体の55%は自社工房、あるいはエルメス製品のみを手がける専属工房で生産されています。
革工房の数は20か所を超え、フランス国内10か所の拠点に集約されています。
1992年にパンタンへ移転した革工房は、2013年に「シテ・デ・メティエ」と呼ばれる複数の建物群へと拡張されました。
そして現在は、パリ近郊のパンタンにとどまらず、フランス各地へとその輪を広げています。
SHOLL名だたるブランドほど製造を外部工場に頼る例が多いのが、現代のファッション業界です。
そうしたなか、規模が拡大するほどに工房と学校を増やし続けているのは、私がエルメスを「別格」と呼ぶ理由のひとつです。
2025年のバッグにも、馬具の金具|ムスクトンとシェーヌ・ダンクル
最新作のバッグにも、馬具屋の目は残っています。
2025年、エルメスはメンズバッグの新作において、馬具の金具パーツである「ムスクトン(Mousqueton)」を、日常使いできるバッグ2型の留め具として再解釈しました。
ムスクトンとは、フランス語でカラビナのような留め金具を指す言葉です。
同年にはさらに、1938年にロベール・デュマが生み出したブレスレット「シェーヌ・ダンクル(錨の鎖)」のアンカーチェーンのコマが、オールレザートート「カバ・アンクラージュ(Cabas Ancrage)」において、ストラップの長さを調節するバックルとして取り入れられました。
船の錨(いかり)をつなぐ鎖を、実用性を損なうことなく美しい形にしたのがロベールでしたが、およそ90年の時を経て、今度はバッグの機能的なパーツとして働いているわけです。
終わりに|エルメスは何を守り、何を変えたのか
今回は以上です。
19世紀の創業から今日までの歩みを通して見ると、エルメスが変えてきたものと、守り続けてきたものがより鮮明に見えてきます。
変えてきたのは、扱う品と届ける場所、そして企業の規模です。
馬具から始まり、バッグ、スカーフ、ネクタイ、時計、靴、化粧品へ、パリの一軒の店から、世界中のメゾンエルメスへ、そして家族の工房から、2万6千人もの従業員を擁する上場企業へ。
一方で守り続けてきたのは、使う人の日々の場面から考えることと、作り手を自分たちの近くに置き続けることです。
19世紀の鞍も、2025年の最新バッグの留め具も、この2つから生み出されています。
だからこそ私は、エルメスが「ブランドの中のブランド」なのは、歴史が長いからではないと思います。
何を守り、何を変えるべきかを、190年近くにわたって選び続けてきたからこそ、エルメスは最高のブランドなのです。
SHOLLもしエルメスの品を目にする機会があったら、ぜひ金具やベルト、縫い目といった使うための部分に注目してみてください。
「馬具屋の目」が、きっと見えてくるはずです。
それでは、本日はこの辺で。
おしまい!
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